Baseball: Aging Well

Mr. Yamamoto's 200th winning has proved that Kiyohara is not a hero yet.


英雄と悪者は紙一重だという。
不況や戦争が起きている現在、人々は不安に駆られている。
福田改造内閣にも、あまり人々は期待していない。
政治家が悪者扱いされる今日、ある2人の野球選手が英雄になり、なろうとしている。


中日ドラゴンズ山本昌投手が、8月4日の巨人戦で通算200勝を達成した。
チームメートに胴上げされ、宙に舞うと、涙がこぼれた。
「よく頑張った」と父・巧さんは言う。落合監督もねぎらいの言葉をかけた。


中年の星」は、輝くのに時間がかかった。
山本選手は42歳。この歳の男性は、メタボが気になる頃だろう。
40歳を過ぎてから200勝を達成した投手は、現・横浜の工藤公康(04年)1人しかいない。
過去にこれを達成した24投手の多くは比較的に若い。今日では、この記録に到達するのが難しくなっている。


史上最年長での記録は、人々の励みになるだろう。
山本昌投手は、83年にドラフト5位で中日に入団。
初勝利を上げるまでに5年かかった(88年8月30日、対広島)。
88年にアメリカへ留学した。日本で燻っていた雑草魂が、アメリカで羽を広げた。


現在、野球は不安に苛まれている。
2008年の北京オリンピックで野球は五輪から姿を消すことになっている。
野球の五輪復帰を懸けた「タイブレーク方式」導入では、日本は出し抜かれた。
6月下旬には、ヤクルトのダニエル・リオス選手から禁止薬物が検出された。
熱闘が続く高校野球からは、未だに不祥事がなくなっていない。
私立校と公立校では、格差が広がっているという。


不安な時代に、努力家のストーリーは、人々に希望を与える。
ナゴヤドームの38,333人だけでなく、テレビのニュースなどで知った人々も、
山本昌選手の偉業に、歓喜したはずだ。


山本昌投手がナゴヤドームで歴史に挑戦していた一方で、
京セラドームの16,295人の観客は、オリックス清原和博選手の復活への狼煙を見た。
06年9月2日のロッテ戦以来の安打を放ったのだ。


清原選手の見かけは、健康的だ。
大きな身体は、ほんやりと黒く焼けている。左耳のピアスの輝きが際立つ。
雨の中の盟友・桑田投手との練習を経て、2日に復帰した清原選手。
1軍復帰初打席は、空振り三振に倒れた。
そのスイングはぎこちなさが残っていたが、力強く「魂」がこもっていた。


だが、彼は背水の覚悟を決めている。2度手術を受けた左ひざは、完治しなかった。
軟骨移植手術を受けた選手は、過去に一度もフィールドへ戻っていない。
武装した肉体は、恐怖と不安を隠している。
心技体は、脆弱い状態かもしれない。


だが、こんな時こそ、人は信じられない集中力を発揮する。
陸上200mハードルの為末大選手が言う「『私』が薄まるような感覚だ。
「自分の体で動いているが、そうでないような気もする」と言う為末選手は、
今年6月に行われた日本選手権を、この感覚で制した。


3日に初安打を放った清原選手も、こんな感覚だったかもしれない。
40歳の清原選手と42歳の山本昌選手は、人々の心を熱くする。


お互いの歩んできた道は、はじめこそ違ったが、今では似ているようだ。
そして、若くして光を集めてきた清原選手は、近年、特に巨人移籍以降、苦しんでいる。
山本昌選手も、昨シーズンはわずか2勝しか手にしなかった。
97年にシーズン18勝を上げて以降、勝利数は下降している。


だが、この2人には決定的な違いがある。
若い頃に苦労している分、山本昌選手は強い。まさに雑草。
一方、清原選手は、若い頃から、名声を手にした帝王である。
山本選手の方が、ハングリー精神に溢れ、努力の大切さをわかっているだろう。
清原選手がこれらを持っていないと言う訳ではない。
しかし、「勝負強さ」の面で違いが出るだろう。自分を信じる力だ。


200勝達成で、ほぼ英雄となった山本昌投手。
清原選手の残されたプロ野球人生は長くない。
野球界を盛り上げるためにも、彼の活躍は欠かせない。
だが、今のままでは「英雄」にはなれない。
「結果」が今こそ求められる。


Ryo2412